2009年5月4日月曜日

オマージュ

それからというもの、ボビンレースの手は止まりません。といっても、こればっかりは相変わらず他の手しごとと比べて進みません。あまりにも夢中になって休ませるはずのボビンを絡ませてしまってはほどいて...という繰り返し。織って、ほどいて...この数日間こんな調子です。だけど、ほどくのさえとても楽しいのです。ボビンを動かしているときは自分とボビンだけの対話状態になり、一種の瞑想のような状態になります。しかし、今はボビンを動かしていても他界した先生のことが頭から離れません。今日、久しぶりに教室に行ってきました。「知らせを聞きました」と言って席に着く。まるでまだ彼女がそこに座っているかのような空気が漂っていて、ボビンのカラカラという音と共に彼女の声が鮮明に頭の中で聞こえてきます。明日にでもまたひょっこり出てくるのでは、という錯覚に陥ります。振り返れば初めてここに来たのが5年前。どんな種類で何番の糸を使えばいいのかも分からない、ボビンレースをやるために来ているのにボビンさえも持ってない。持っているのはいつも使っているハサミそしてメモをするノートだけ、という状態で一日目が始まりました。ボビンは基本的に2本で1ペアであるということから教えてもらって、「交差する」「ねじる」という単純明快な動きを繰り返すことであらゆる模様のレースが織れることを学びました。手慣れた人の仕事を見ているととても難しそうなのですが、技術というものはどんな芸術においてもシンプルで、その後は自分の想像力と忍耐と努力でどんなことも可能なのだ、ということをボビンレースを通して知った一瞬でした。道具に関して言えば普通の手芸屋さんでは見たことないものばかり。実際普通の手芸屋さんでは売っておらず、ボビンも先生に注文して購入してもらいました。とにかく一日目から興奮の毎日。この気持ちを一人でも多くの人に伝えたくて当時のサイトではボビンレース特集ページをあっという間に書き上げました。
教室では誰も泣いていませんでした。既にお年を召していらしたということもあるのですが、これも自然の成り行きとして皆がとらえているのか、それとも彼女と同じように高齢の生徒さんの中には「次は自分かもしれない」という気持ちもあって複雑な心境なのか。どんな気持ちであろうと、こうやってレースを織っているこの一瞬一瞬もやはり人生という縦糸を軸に今日という横糸を織り込んでいるのですね。天に召された先生のオマージュとして今日も明日もレースを織ります。